ビールを飲みながら墓場へそして海へ

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初めてあったのは、静岡の実家に挨拶に行った時、弟とRは
動物園に行く支度をして、軽く会釈を交わす程度だ。

その後毎年 お盆と暮れは静岡に里帰りに同行する中で、
一緒にご飯を食べに行ったり、近所の居酒屋に行ったりと
友達の様な付き合いをしていた。

こちらが結婚式を先にした 影響もあってか、彼らは数年後に
式を挙げた。

東京と違ってなのか、長男の結婚式は、ご近所さんや
父親の友人なども招待することもあり、だいぶ大掛かりなもので、
カメラマンとして立ち回った。ゴスペルシンガーなども来ており、
失礼ながら そういうの地方の人にはウケるんだと、感心したものだ。

一歳になる娘が花束贈呈をして、お返しにアンパンマンのスベリダイを
貰ったことを思い出す。

弟とRはトテモ娘を可愛がってくれ、庭に直径3Mの円形のプールを
用意して、大人も子供もみんなプールで遊んだ。

義父や私は傍でビールケースに腰掛けてみんなの笑顔を見ていた。
結婚後すぐに義父と弟で、家を立て替えたばかりで、庭も綺麗に
整って、縁側からプール越しにひまわりが、そよいでいたのを
鮮明に覚えている。

本人たちも、子を授かったと報告を受けた時は
我がことのように喜んだ。それまで義父や義母に隠れて吸っていた
タバコも辞めたと聞き、ジョジョに彼女の暮らしぶりも
母親に近づいていくのだなぁと感じたものだ。

最後に会ったのは2003年のGWだった。程なく6月に待望の子を
しっかり抱いた写真が届いた。Rとお祝いの電話で、やっぱり
自分の子が一番でしょ?と尋ねると 屈託のないハイぃーとの
返事。

娘にも従姉妹が出来て、私を取り巻く環境が 日々光り輝いて
見えていた頃だと思う。

その年のクリスマスも、奥の実家へ帰省する。
数日前にRが入院したと聞いた。折角初めてのクリスマスを
お祝いするタイミングで、残念がっていたようだ。
当の本人は母の不在のせいか、ぐずる日が多いそうだ。
当たり前だろうなと思った。

症状は 吐き気と腹痛が出ている。肝臓の炎症が見られると聞いた。
いつも最悪の事態をイメージしてしまう悪い癖がある自分は、
すぐにネットで聞いた症状に近い病気を検索し始めていた。
黄疸が出てないか?入院後何日経過しているのか?など
メールで問い合わせるうちに、怖くなって来た。
劇症肝炎の症状にピッタリ合ってしまっている。
奥と話して 伝えようか、下手に不安を煽るのも良くないし
などと言って、現地に着いてもっと詳しく聞くことにした。

無菌室に入ったRと面会した。顔が明らかに黄色い。
「早く退院してクリスマスやろうね!」とは言ったものの
既に軽い病気ではない様子がありありとわかった。


2004年 1月8日。義妹Rが旅立った。
知り合ってから4年目の年だったと思う。奥の弟の奥だった。

帰省する度に 酔っ払っては、夕方の散歩に出掛ける。
Rに会いにいくのだ。フランジアの白とバージニアスリム
コンビニ袋片手に、ビール片手に。

過ごした時間は、けして長くなかった。でも彼女と逢っていなかったら
私の人生も変わっていたと思う。 必要な時期に必要な出逢いを得たことに
感謝している。

身内の者とは違うけど 供養のつもりで 酒を飲みふらつく。
墓場から歩いて10分程に 海辺がある。
人の死とはなんだろうか?わからないことを 考える。
いくら考えても 答えは出ない。彼女を想い出すタイミングは、
減っている。失った直後の虚無感や無力感ではない。
もっと腹の底の方に鎮座する古い悲しみが見える。
シャガールの絵のアオ色に似た塊が、私の中にある。
近しい大切な人を失う毎に、その存在感を増していく。
あの時病名を伝えていれば、違う未来があったのかどうか
はわからない。悔やむ気持ちもあるが、それとは別に
また彼女に会いに行きたくなった。もう6年逢ってないことに
今気づいたから。

 

 

 

追伸: 劇症肝炎は物凄い速さで人の命を奪います。

         少しでも不安を感じる場合は、早い段階で

         セカンドオピニオンを検討ください。

         本人の体力が、間に合わない場合、

         手の施しようが無くなります。 イロイロな体裁よりも

         然るべき処置の速さが、運命を変えられることもあります。

        そうでなかったのなら、大事無くて よかったねと 言える様に。

 

 

 

過眠症 大爆発です。

私は過眠症です。

大学病院に入院検査を受けて、太鼓判を

おされて早10年くらいでしょうか。

当初、特発性過眠症と診断され、ここ数年前に

反復性過眠症と診断されました。薬はそれ程

変わっていません。

今年1月頃から今まで、過去最高に酷い様相です。

この病気が判明した時、本当に嬉しかったです。

変に思うかも知れませんが、自分が怠けていたり

気合が足りないものと思って生きてきて、解決の糸口が

見つからないまま、ダメ人間と思っていきてきたから。。。

病気のせいで、自分のせいじゃ無いと思えて嬉しかったです。

初めは病気なんだから、薬を飲んで改善すると思ってました。

10年くらい経過した今は、病状はそんなに改善していないのですが、

気の持ち様が以前より図々しくなり、なんとなく病気と共存しています。

でも、やはり仕事とか約束などに損害が出てしまいます。

死んでしまいたい。って思う事が多くなっています。

でも具体的に死ぬ方法や踏み切るまでには至っていません。

幸か不幸か、会社も家族もこの病気を理解してくれています。

嫁もいますが、病気を知ってからあまり起こしてくれなくなりました。

自分も頼まなくなりました。病気なんだから仕方ないと思われてる

のかも知れません。そんな些細なことが寂しいものです。

最近気付いたのですが、前述の『死にたい』について

本当の心は、死にたいではなく たすけて とか 逃げたい

なのだろうという、現時点での結論が出ました。

本当に過眠症は人間の生活を、そがいして 困ります。

そがいは、疎外であり、阻害なのですが、健常者の方には

わかってもらえないのだろうと、思います。

ネットでも甘えだろとか、目覚ましの数をどうとか。。。

言われますが、そんなことでは無いのです。

なんなら、木村拓哉が過眠症の役で、ドラマでもやってほしいです。

多くの人に、正しくわかっていただくだけでも、救われる瞬間もあります。

どんな病気の人も、また 苦境に陥っている人も、生きなければなりません。

出来ることなら、シアワセに生きなければなりません。

生きることが正義であり、シアワセや正義には色々な形があることと、

それを我々 過眠症患者が 実現できる 社会作りを、この拙い文を読んだ方々

には協力して頂きたく、何卒 宜しくお願致します。


また、たまに記事を書かせて頂きます。

薬は 朝・昼・夜 リタリン
        朝 メチコバール
        寝る前 ビフシロール
        夜20時 ロゼレム
今はこんな感じです。

では また。



給食

今週のお題「給食」です。

給食のカレー・シチュー・スパゲッティーが

美味しいという人は多いと思います。

しかし 私の中では何故と思う 献立ばかりが

回想されます。

例えば、ハルサメと胡瓜の酢の物的なものや、

同じくハルサメと某という組み合わせ。。。

きっと健康に良いってことじゃないはずであろう

味と義務感。 食わなきゃだめよ的な存在でした。

 

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それと日々出てくるパサパサなパン。

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結論として腹減らなきゃいいんでしょって

感じます。 そりゃ牛乳呑んでパサパサパンで

膨れるでしょうね的な給食。そして食わなきゃだめよの

添え物と、時には嬉しいカレー達。。。ま ゼリーとかも。

そーいう風にひねくれて考えると、むしろ主役は

パサパサパンであり、牛乳であり、無意味な添え物と

言えなくもなく。。。 もし自分が学校教諭であったならば

毎日が修行と言っても過言ではない。

だからと言って、教諭に反論は許さない。

それも仕事だから。。。

不足を感じる仕事はどこの世界も一緒だから。

給食は親目線では有難いし、子からしても

なんの疑問も挟まずに食セルシ、

学校の授業でみんなが優劣を感じずに過ごせる

貴重な時間。勉強ができなかろうが、

運動ができなかろうが、異性にもてなかろうが。。。

みんな等しく過ごせるかけがえのない平等な時間であり、

はなから牛乳を出しても、お咎めなしのパラダイスで

あって欲しいと感じます。

給食と同じような万能なひと時は、現社会にはあまりなく

意義?を再検討頂きたい。

私は銭湯も好きなのだが、もしかするとそれも同じ様な

事なのかもしれない。 見も知らぬおじさんに頭を

はたかれた思い出は今も懐かしく、大切な想い出です。

湯船に潜って怒られたり、水でぬるめて怒られたり、

はたまたよく水気を切らずに、脱衣所にいって  などなど。

ま おじさんの懐かし話なのですが、心が通う場

それが給食であり、寄せ場なのだと思います。

寄せ場が公共のルールを教えてくれます。

給食のスタイルも変化があるけれども、

いつの日か今の小学生が、同じ様な感覚を持って

生きていてくれる未来を希望します。

 

 

 

常に求めることへは貪欲で在りたい。ゆるくってモネ。

今週のお題「今の仕事を選んだ理由」

システムエンジニアを目指し、プログラマーになり2年頑張りました

    24時間営業を何ヶ月もやっていると身体を壊します。

    みなさん注意しましょう。当時の愛読書は『明日のジョー』でした。

    燃え尽きたとき、病院のベットにいました。入社から2年。

②会社に生真面目に奉仕して、命を懸けて頑張った前職を反省しました。

   今度は笑顔で嘘のつける、営業マンになるべく、営業会社で頑張りました。

   ゲーム感覚で契約を取り、3000人くらいの会社でトップ11位の成績。

   微妙な成果でしたが、なかなか場数は踏めました。建設会社へ向け3D-CADなど

   ハード・ソフトウェアの販売。単価は300万円くらいでした。

   根が真面目だったようで嘘とも取れるおーばーとーくにいやけがさしてきました。

   と顧客に相談したら、じゃぁ うち来いよ。。。10年勤めましたが建設業へ。

③工務店(建設会社)入社 図面を描くソフト、見積を書くソフト、経理のソフト

   MS-OFFICE系のソフト・社内ネットワーク構築、これらは万能でしたが、

   建設についてはさっぱりでした。大工さんのお手伝いをしながら、徐々に

  現場の流れを学びました。 その後何件か特徴のある建設会社へ転職。。。

  官庁工事専門の会社、不動産売買・賃貸が主業の会社、

  コンビニ建設が得意な会社、そして今はそれらすべてプラス一般顧客や

  ハウスメーカーを顧客とする会社に在職しています。


  振り返ると、全てが 今 役立っています。最早収入の為というよりは、

  自分の性分に合った仕事が出来て居ます。

  嘘のない仕事、契約は人と人が約束を履行する事に他ありません。

  それが嬉しく、それを喜ばれている。ここまでで23年費やしました。


  やはり 情けは人の為ならずです。


初めまして、

知っている方が はてなで ブログをやっており、
傍観者もいいけど、何か呟くのもいいかなっておもい、
今日から、たった今から 始めました。

皆さんよろしくお願いします。って言っても
長続きするとは想ませんけどね。

書くテーマは、愚痴と酔っぱらいの戯れ言、病気のこと
ノーネームだから言えること など 無責任感を頼りに、
自分にやさしい自己解放というか、自己正当化に
特化していきたいと 思います。

何卒 よろしくお願い致します。

一先ず使い方を学ぶために、いじくり倒してみますね。
ガハハハ